真夜中のプロジェクト

国立研究開発法人ジプシーのぼんやりした日記

無敵の人になったのだろうか?

昨今の報道に関するフミコフミオ (id:Delete_All)さんのブログを読んでそういえば自分にも居たなぁと昔の同僚を一寸思い出してしまった

 

引きこもってる可能性があるのが一人と一人で死んでしまったのが一人。

 

まだギリギリバブルの香りが残ってた1997年(内定者はAMショーを見学してその帰り、会社の金で中華料理レストランで懇親会を開いてもらったりした)

なんとか滑り込みでゲーム会社にプログラマーとして入った私の同僚は15人位?居た(既に古い記憶で覚えてないや)

そのうちプログラマーは私を含めて6名。

 

新卒は全員直営ゲームセンターの店員を半年やるという研修を終えてアーケード部とコンシューマ部に配属が別れたときに一緒にコンシューマ部に配属になったのはYとSの二人だった。

 

それぞれ別のゲームを作るグループに別れたので各人忙しくなる時期は、ずれていたけどゲームセンターでの研修が終わって、徹夜作業が多くなってきたときに最初に音を上げたのはYだった。

 

今思い返せば、世間的にもまだバブルの気分が忘れられずギリギリ保っている状況で徹夜してまで仕事する必要はないと両親にも説得されたとのことで、結局1年経たないうちに退職してしまった。

 

同期入社の人たちでやる飲み会や忘年会にYの退職後も誘っていたので近況はその時に聞くことができた。

親も未だ働いているし、学生時代に貯めた貯金も十分あるから大丈夫と大見得を切って働かずにいた(デザイナーの同僚からそろそろ働けと煽られて、売り言葉に買い言葉みたいな言い方だった)

 

98年の忘年会でも働いていなかったけど、99年の忘年会で呼んだ時は流石に両親に働けとせっつかれているが職歴が無いのでなかなか雇ってもらえないだとかペットショップでバイトしたいけどそれも職歴が無いので採用されないとか言っていたので皆で戦慄したのを覚えている。

 

会社が倒産してしまって連絡しなくなってしまったけど引きこもってないと良いなと思う(凶行を起こすようなタイプではないけど)

 

もうひとりの同僚Sはいよいよ会社もやばくなってきた2000年にパッケージソフトの開発部ではなく共通開発ライブラリ作成部への異動を打診されて、それでは自分はゲームを作れなくなるからとなんだか一寸理解しにくい理由で気に病んで退職。

(開発ライブラリはこれから作る全てのゲームの根幹部分だから、ゲームを作れないなんてことは絶対ないよ、と引き止めたのだけど聞き入れてもらえなかった)

 

Sも退職した00年の忘年会に呼んで近況を聞いた時は働いておらず、正月は両親のいる山梨に帰ると言っていたので、そのときに両親に退職したことを報告してそのまま引きこもるか働き口を探すかするだろうなと思っていた。

 

年が明けて3月某日、人事課長が開発部フロアの私のところにやってきて、Sと連絡をとっているか?と訪ねてきた。

 

私は忘年会には呼んだけど最近は連絡してない事、半年も前に辞めた社員のことをなぜ聞くのか?と人事課長に聞くと、Sは退職したことを両親に伝えておらず連絡がつかなくなった息子を案じて会社に連絡してきたとのことだった。

 

忘年会の時点で退職から3ヶ月は経過していて金も無いだろうから(失業保険の申請も一切していなかった)正月に帰ったら流石に親に報告したろうと思っていたのにまさかの対応。

 

それからのことも全て未だに鮮明に思い出せるけど辛いので割愛

Sは母校の大学キャンパスのビル屋上から飛び降りて一人で死んでしまった。

 

線香をあげに山梨の実家へ行った時、校長先生を努めていたSの父親に息子を気にかけてくれてありがとうございました。と土下座されたのは今思い出してもとても辛い。

 

一人だけにしろ巻き添えにしろ死ぬのは残された人の心が壊れるのでやめてほしいね。